昭和四十二年十月十六日


 御挨拶を申し上げます。
 只今、控えにお控えになっておられますご参列を頂きました先生方、又こちらにおいでられます来賓の先生方、本日は私共の為に御参拝又は御参列を頂きましたことを有り難く厚く、心からお礼申し上げます。又隣接教会、築水連合会の皆さん方、本日はようこそ御参拝頂きまして有り難うございました。この場からでございますけれどもお礼を申し上げます。
 さて皆さん、本日はおめでとうございます。親先生のお取次のおかげを頂きまして一から十まで親先生のお指し図のまにまに今日のお祭りを奉仕して頂きました。もう何とお礼を申し上げてよいやら分からん程のおかげをほんとに、これは親教会の記念祭のごたるばいと親先生がおっしゃる程に一生懸命に私共の為に祈り、かつ色々とご指導を賜りました。ほんとに有り難いことでございます。
 ほんとに私共がここにおかげを頂く様になりまして十七年間ほんとに親先生のお取次を頂きます、そのお取次の働きがこのような姿、形でお互いがおかげを頂けるようになってまいりました。そして私共がおかげを頂いてまいりましたということがです、どういうようなことがおかげであるかということなのであります。
 成程、盲が明きました、ちんばが立ちました。もう見放されたというような方達が随分たくさん助かって参りました。もうほんとに人間の知恵やら力では出来ないようなことがらがった、云わば問題でもそれこそすきぐしですくようにおかげを蒙って参りました。ね、だからそういうおかげを頂いてきたということではなくて、私共がここ十七年間の間に信心の稽古をさせて頂いて参りましたこと、そしてここに私は申し上げられますこと、先程行徳先生からも又は教務所長先生からも懇切なご教話を頂戴致しましてご挨拶を頂きましたが、ほんとにこれからの私共の信心というのがどのようにあったならば、いよいよおかげをおかげとして本当のおかげにしていけるかということを私はこいう風に確信致しとるのでございます。
 いかに神様が有り難い、尊いというてもその神様云わばご神前にこうして拝礼をさせて頂く時だけが有り難い、又はお祭り申し上げている神様だけが有り難いのではなくて、その神様の働きそのものが私は有り難いんだと分からせて頂くことだと思います、ね。
 神様を尊ぶというても、神様が有り難いというても、起きてくる問題をお粗末に致しましたりその様な、例えば様々な事柄を困ったことを難儀なことだと受けてまいりましたんでは、私はおかげにならない。神様のお働きそのものが有り難いのだ。それは痛いこともありゃ、苦しいこともある。恥ずかしい思いをすることもある。腹の立つ思いをすることもあるけれども、これ一切が神様の働きであると分からせて頂いて、そのことを有り難く分からせて貰い、そのことを通して私共が信心の稽古を日々させて頂くならば、これからのおかげもいよいよ頂いて行けることを私は確信致します。先程、所長先生のお話しを頂きましたお道の信心の確信とでも申しましょうか。一番大事なところをあのように分かりやすくご説明、いやお話しを下さいました。中でも私はあの茂衛門さんのお話しに、もう何回聞いたか分からないお話しではございますけれども、改めて感動致しました。茂衛門さんが奥さんのお病気で大谷に向うていかれる。近づいておいでられる。わたしはあの話がだんだん大谷に近づいていかれる、教祖のもとにだんだん近づいておいでられるということを聞かせて頂いとりましたら、体が震うような感動を覚えました。信心とはわが心が神に向かうのを信心というのじゃと。私共の心が神様に向かう心。しかも向かうただけではない、私はその時にお話しを頂きながら感じました。お取次の働きということは有り難いが、そのお取次の働きというのは丁度私はもう人間の知恵やら力ではどうにも出来ない、ね。例えばネジがしっかり錆びついているようなもので、こうモクネジを使いますと簡単に緩んでまいります。茂衛門さんのかたくなな心が近づかれるに従い、お話しを頂かれるに従いだんだん心が穏やかになる。いわゆる和賀心になられておいでられる。同時にそれに平行して奥さんのオカギも全快になる。そして当時教祖の神様から金光大神という御神格までもお受けになられる程のご神徳をお受けになられたお方。私共が信心させて頂いて私共の心が確かにお参りさせて頂くと、確かに喜びの芽が出る。それは私共の心がお取次を頂いて丁度モクネジを合わす様に緩めて頂くようなものだからだと私は思うのです。そして信心が続けられてまいりますといよいよ分解掃除にかかられる。この辺が少し辛いですね。苦しいです。けれども神様のお働きの中に信心をしておって変わったことが起こってきたなら有り難いと心得て信心せよと仰せられます。その変わってくることがおかげと心得るところまで私共は信心を進めていきたい。今こそ分解掃除をして頂いとるんだ、信心は日々の改まりが第一だ。信心は本心の玉を磨くものぞやとおっしゃる。そこへ焦点をおかせて頂いて、そのような私共の心になってまいります。そこから生まれてくるところの信心の喜び、その喜びが育って行くことを信心だと、私共は心得なければならないと思う。十年前の私も十年後の今日の私ももし同じであるとするならば、有り難いというものがもし同じとするならば、もうあなたの信心はそこでストップしてるんだ。信心をしておれば一年一年有り難うなっていくとおっしゃる。心は信心の定規じゃによってともおっしゃる。自分の心の定規というものが確かに去年よりも今年というように有り難うなっていかないとするならばです。もうあなたの信心はストップしておるんだ。私の信心はもうそれで駄目になってるんだ。生き生きしたものがない。生き生きした喜びがない。これではおかげも頂ける筈がない。
 どのように仕掛けのおかげがありましても、それこそ枯れた竹や枯れた木を持って行ったんではビリッともきはしません。こちらが生々しいしかもこちらが分解掃除をして頂いてそれがガッチリと機械が精密になっていく。洗い上げられていく。そこに神様に通うもの、交流するもの、その交流する道を辿って生まれてくるものが私はおかげであると私は思う。私共がこれからの信心、私共はいよいよここのところに焦点を置かせて頂きましておかげは受けなければなりません。
 おかげはほんとに痛い痒いのことがあっては、難儀な問題があってはね。ですから、問題は私共がです、いよいよ助からなければならん。形の上にもいよいよそのような助かりをいよいよ求めていくところに信心の楽しみも喜びも私はあると思う。その信心の喜びが育っていくからこそ信心が続けられるという信心でなからなければならない。
 今日、このようにおかげを頂きました。云うならば十七年間という  があって今日云わば誕生した、ね。それを私共がいかにお育てを頂くかというところ、いよいよ親先生のお取次を頂いていよいよ本当の意味でのお育てを頂かなければなりません。又各先生方のご指導も頂いていよいよ一人前にならせて頂けれる信心に育っていかなければならない。そして道の上にも私共各々の家の上にもいよいよ祝い目出度いと日々が有り難い。御理解百節に祝いめでたの若松様よ、枝も栄える葉も茂るというではないか、生神金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えるじゃと、教えて下さいます。その道を行じさせてもらう道を体得させて貰う。それはどういうようなことか、私一番初めに申しました。もう一切が神様の働きなのだということ。
 今日、私朝奉仕が終わって一寸出ましたら、丁度風が東から吹きよりました。こりゃあそこで受付する人達が寒いなと思うた。こっちがうっぽんぽんですから、暫くいたしましたら、少し北の方へ寄っとりました。ここから眺めますとあの教旗が今度は西から東へ動いとります。私共の前にいつも同じ風は吹いておりません。どのような風が吹いてくるやら、雨が降ってくるやら、どのような突発的なことが起こってまいりましても、どのような場合でも動かんですむだけの信心。どのような場合でも神様の御働きとしてそれを受けていけれる信心。そういう信心が頂かれてこそ、私はいよいよ神様を尊ばせて頂く。神様を大事にさせて頂いておるということが言えるのではなかろうか。
 そういう信心を焦点にして信心の稽古を進めさせて頂くならば、いよいよ合楽教会の繁盛がそのままお道の繁盛に難儀な氏子の取次ぎ助けられていくことにつながっていくことを私は確信いたしております。ご挨拶が長うなりましたけれども、皆さん改めておめでとうございますを申します。
 昨夜、前夜祭にこういう私を親先生の装束姿を一辺見たいというて亡くなっていった方がいくらもあります。これが教会になるまではどげなことがあってもというておった人が、その落成を見ずに亡くなっていった霊様がたくさんあります。その霊様へ私昨日御挨拶させて頂いておりましたら、何かその昨夜は殆ど休まずでございましたが一緒に御用を頂いておって下さるような実感がですね、私の心に伝ってくるのです。
 このようなおかげになってまいりますお取次の働き、その働きが皆さんの一生懸命の真心の奉仕、そして目には見えないけれども根であるところの霊様達のそうした働きも頂いて今日のこのおかげを頂いておるのでございます。ですから、このおかげがいよいよほんとなおかげに育っていかなければそのような霊様達に対しましても又お取次を下さる親先生に対しましても、又今日の合楽の開教式を心から祝福して下さってる皆さんに対しましても相済まんことであると思うのでございます。御挨拶頂きました。有り難うございました。